はじめに|徒手療法で起こりやすい認知バイアス
臨床判断は、常に客観的に行われているとは限りません。
人間の判断は、多くの場合、直感や経験、思い込みに影響されます。
心理学では、このような判断の偏りを 認知バイアス(cognitive bias) と呼びます。
徒手療法の臨床では、治療効果の評価や原因の推測において、これらのバイアスが強く影響する可能性があります。
認知バイアスはなぜ起こるのか
認知バイアスは、人間の判断の欠陥というよりも、脳の情報処理の特徴として理解されています。
人間の脳は膨大な情報を常に処理する必要があります。
しかし、すべての情報を完全に分析することはできません。
そのため脳は、経験や直感、過去の記憶などを利用して素早く判断する仕組みを持っています。
このような判断の近道は ヒューリスティック(heuristic) と呼ばれます。
ヒューリスティックは多くの場合役に立ちますが、その一方で判断の偏りを生むことがあります。
これが認知バイアスです。
進化の観点では、素早い判断は生存にとって重要でした。
危険な動物や腐った食べ物を見たとき、人間は瞬時に判断する必要があります。
このため人間の脳は、正確さよりも速さを優先する判断システムを持っています。
認知バイアスは、このような脳の仕組みから生じる自然な現象と考えられています。
確証バイアス(confirmation bias)
確証バイアスとは、自分の仮説や信念を支持する情報だけを集め、反対の情報を無視してしまう傾向です。
臨床では非常に頻繁に起こります。
例えば「骨盤の歪みが原因だ」「筋膜の癒着が原因だ」「この手技はよく効く」といった仮説を持っていると、その仮説を支持する症例だけが強く記憶されます。
逆に改善しなかった症例や理論と合わない症例は、記憶から消えやすくなります。
その結果、セラピストは「この理論は臨床でよく当たる」と感じるようになります。
しかし実際には、当たった症例だけを覚えている可能性があります。
確証バイアスは、徒手療法の理論が長く信じられてしまう理由の一つと考えられます。
相関と因果の混同(correlation vs causation)
臨床で最も多い誤解の一つが、相関と因果の混同です。
例えば施術後に痛みが減ったとき、「この手技が痛みを治した」と結論づけてしまうケースがあります。
しかし実際には
・自然回復
・プラセボ
・DNIC
・回帰効果
など、別の要因が関与している可能性があります。
慢性疼痛では症状が日によって変化するため、偶然の変化が治療効果として解釈されることもあります。
臨床経験だけで因果関係を判断することは、非常に危険な場合があります。
回帰効果(regression to the mean)
回帰効果とは、症状が最も悪いタイミングで受診するため、その後自然に改善して見える現象です。
例えば痛みが10の状態で来院し、数日後に7になる場合、この変化は自然な症状変動である可能性があります。
しかし臨床では「施術の結果として改善した」と解釈されることが多くあります。
慢性疼痛では症状の波があるため、この現象は非常に頻繁に起こります。
多くの治療法が「効いたように見える」理由の一つです。
生存者バイアス(survivorship bias)
生存者バイアスとは、成功例だけを見て判断する偏りです。
徒手療法では、成功症例や改善例が強く共有されます。
SNSやセミナー、症例発表などでは成功例が中心になります。
一方で、改善しなかった症例や悪化した症例はほとんど共有されません。
このため、治療法の効果が実際よりも高く見えることがあります。
権威バイアス(authority bias)
権威バイアスとは、権威のある人物の意見を無条件に正しいと感じる傾向です。
例えば有名セラピスト、トップアスリート、著名な医師が使用している方法は、それだけで信頼されやすくなります。
しかし、権威があることと理論が正しいことは必ずしも一致しません。
医療史では、多くの誤った理論が長期間信じられてきました。
権威に依存した判断は、批判的思考を弱める可能性があります。
ハロー効果(halo effect)
ハロー効果とは、人物の印象が評価全体に影響する現象です。
説明が上手、人柄が良い、カリスマ性があるといった特徴があると、技術も優れていると感じてしまうことがあります。
臨床では信頼感や安心感が症状改善と結びつくことがあります。
そのため、治療効果の評価が人物評価と混ざることがあります。
利用可能性ヒューリスティック
人は、思い出しやすい出来事を過大評価する傾向があります。
例えば劇的に改善した症例や印象的な症例は強く記憶に残ります。
その結果「この治療はよく効く」と感じるようになります。
しかし実際には、劇的改善は例外である可能性があります。
臨床判断は、印象ではなくデータに基づく必要があります。
ダニング=クルーガー効果
ダニング=クルーガー効果とは、知識が少ないほど自分の能力を過大評価する現象です。
ある理論を少し学ぶと「原因が分かった」「すべて説明できる」と感じることがあります。
しかし知識が増えるほど、身体は複雑であり単一理論では説明できないことに気づくようになります。
臨床では、単純な説明ほど魅力的に見えるため、このバイアスが生じやすくなります。
アンカリング
アンカリングとは、最初に得た情報に判断が強く引きずられる現象です。
例えば「骨盤が歪んでいる」「筋膜が癒着している」と最初に説明されると、その後の判断もその仮説に影響されます。
このため、別の可能性が見えなくなることがあります。
センメルヴェイス反射(Semmelweis reflex)
センメルヴェイス反射とは、既存の信念や常識と矛盾する新しい証拠を、検討せずに拒否してしまう心理的傾向を指します。
この名称は19世紀の医師 イグナーツ・センメルヴェイス の研究に由来します。
センメルヴェイスは産科病棟で発生していた産褥熱の原因を調査し、医師が解剖後に手を洗わず出産介助を行うことが感染の原因になっている可能性を指摘しました。
彼は塩素水による手洗いを導入し、産褥熱による死亡率を大きく減少させました。
しかし当時の医療界では、この主張はほとんど受け入れられませんでした。
理由の一つは、当時の医学では細菌の存在がまだ広く理解されていなかったことです。
もう一つの理由は、医師たちが「自分たちが患者を死なせている可能性」を受け入れたくなかったことでした。
結果としてセンメルヴェイスの発見は長い間無視されました。
現在では、手洗いは医療における最も基本的な感染対策の一つとされています。
結論
徒手療法の臨床判断では、多くの認知バイアスが影響する可能性があります。
これらのバイアスは、経験、信念、印象によって強化されることがあります。
臨床経験は重要ですが、それだけで因果関係を判断することは危険な場合があります。
そのため徒手療法を理解するためには
・批判的思考
・科学的検証
・複数の視点
が重要になります。
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