ポリヴェーガル理論とは何か|神経解剖学と生理学から批判的に再検討する

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ポリヴェーガル理論とは何か|なぜ一部の臨床領域で参考にされるのか

ポリヴェーガル理論は、自律神経系、とくに迷走神経と安心感、社会的交流、防御反応の関係を説明する理論として提案されています。

この理論が一部の臨床領域で参考にされる背景には、安心しているときは社会的交流が保たれ、防御反応では闘争・逃走反応が起こり、極度の脅威では不動反応が起こるという階層モデルがあります。

とくに、トラウマ、心理療法、ボディワーク、徒手療法の周辺領域では、身体の反応と対人反応を同じ枠組みで扱う理論として取り上げられることがあります。

ただし、理論が参考にされていることと、その生理学的前提が支持されていることは同じことではありません。

今回のコラムでは、Grossmanの論文「Fundamental challenges and likely refutations of the five basic premises of the polyvagal theory」を主な参考文献として、ポリヴェーガル理論の前提を神経解剖学、生理学、比較生物学の観点から批判的に検討します。

▶︎ 生物学的妥当性とは何か

ポリヴェーガル理論の問題点|批判の焦点は安心感や社会性そのものではない

ポリヴェーガル理論への批判は、安心感、脅威、社会的交流という現象そのものを否定するものではありません。

問題になっているのは、それらを説明するために置かれている生理学的前提です。

具体的には、背側迷走神経と腹側迷走神経の機能分化、RSAやHRVの解釈、進化の階層モデル、そして社会性との直結です。

つまり争点は、安心感という体験が存在するかどうかではなく、それをポリヴェーガル理論の形で説明してよいかどうかです。

「ポリヴェーガル理論の基本的な生理学的前提は、いずれも支持できないという幅広い合意がある。

その合意の根拠となっている既存の証拠の多くは、ポリヴェーガル理論の根底にある仮説が反証されていることを強く示している。」

Fundamental challenges and likely refutations of the five basic premises of the polyvagal theory

Grossman P.

▶︎ 自律神経とは何か

迷走神経の複雑さ|背側と腹側の二分法だけでは捉えきれない

ポリヴェーガル理論では、副交感神経系を一つのまとまりとして扱うのではなく、脳幹背側系と脳幹腹側系に分け、それぞれに異なる意味づけをしています。

そのうえで、背側は不動反応やシャットダウンのような防御反応、腹側は安心感や社会的交流に関与すると説明します。

しかし、この説明は迷走神経の実際の複雑さをかなり単純化しています。迷走神経は、特定の心理状態だけを担う単純な一本の経路ではありません。

脳幹の複数の神経核、内臓から脳へ向かう求心性線維、脳から内臓へ向かう遠心性線維、さらに内臓反射に関わる回路から成る複雑な神経システムです。

しかも、その働きは心拍数だけではありません。呼吸、消化管機能、自律調節、内臓感覚の伝達など、多くの機能に関与します。

そのため、背側と腹側をそのまま不動反応と社会性に割り振る説明は、臨床的な比喩としては成立しても、神経生理学としては単純化が強いと言えます。

RSAとHRVの限界|ポリヴェーガル理論の問題点

ポリヴェーガル理論の重要な論点の一つが、RSAとHRVです。

RSAは呼吸洞性不整脈のことで、呼吸周期に同期して心拍数が変動する現象です。一般には吸気で心拍数が上がり、呼気で下がることが観察されます。

HRVは心拍変動のことで、心拍と心拍の間隔のゆらぎを数値化した指標です。

どちらも心臓自律神経調節の一部を推定するために用いられますが、それだけで心拍調節以外を含む迷走神経機能全体や、安心感、社会的交流、自己鎮静を直接示すわけではありません。

Grossmanは、RSAは非侵襲的に測定できる数少ない指標ではあるものの、心拍数制御に関する限定的で間接的な情報にすぎず、迷走神経が関わる他の機能全体を代表するものではないと批判しています。

▶︎ 交感神経と副交感神経とは何か

背側迷走神経と徐脈の関係|ポリヴェーガル理論の中核は安定していない

ポリヴェーガル理論の中核には、背側迷走神経が徐脈と不動反応を担い、腹側迷走神経が社会的交流などを担うという構図があります。

しかしGrossmanは、哺乳類の心拍数の迷走神経制御の大部分が、疑核によって担われていると指摘しています。

疑核は延髄にある神経核で、咽頭、喉頭、軟口蓋、上部食道の運動に関わる鰓弓運動線維の起始核であると同時に、心臓への副交感性迷走神経遠心路にも関与します。

この批判が妥当であれば、徐脈は背側、RSAは腹側という明確な役割分担は成り立ちにくくなります。

「神経性徐脈とRSAは、迷走神経の異なる枝によって媒介され、同時に反応する必要はない。」

「既存の証拠は、哺乳類における心拍数の迷走神経性制御のすべて、あるいはそのほぼすべてが、腹側迷走神経核である疑核(nA)によって媒介されていることを一貫して示している。」

Fundamental challenges and likely refutations of the five basic premises of the polyvagal theory

ここで問題になるのは、単なる細かな解剖学の違いではありません。その出発点である心拍制御の区分が不安定なら、理論全体の骨格も不安定になります。

進化モデルの問題点|背側は原始的、腹側は高度という図式は単純すぎる

ポリヴェーガル理論は、背側は原始的、腹側は哺乳類的で高度という進化の物語を強く打ち出します。この説明は直感的ですが、比較生物学の証拠とは一致しにくいと批判されています。

比較生物学とは、動物種どうしを比較して、構造や機能の共通点と違いを検討する研究領域です。Grossmanは、脳幹腹側領域やそれに関連する機能は哺乳類だけに特有とは言えないと論じています。

魚類、両生類、爬虫類、鳥類にも腹側領域に相当する構造や機能がみられるなら、背側は古く腹側は新しいという単純な図式は成り立ちにくくなります。

「神経性徐脈は、爬虫類脳の系統発生的な痕跡であり、背側迷走神経運動核によって媒介される。」

「既存の比較生物学的証拠は、この主張が正しくないことを明確に示している。」

Fundamental challenges and likely refutations of the five basic premises of the polyvagal theory

この批判が重いのは、ポリヴェーガル理論の説得力の多くが、この進化の物語に支えられているからです。背側は原始的、腹側は社会性のための高度な哺乳類的適応という構図は魅力的です。

ただ、その魅力が大きいほど、比較生物学の裏づけが弱いことは深刻になります。

徒手療法での位置づけ|ポリヴェーガル理論は説明モデルとして扱うべきである

徒手療法の現場では、接触、注意、文脈などが、患者様の身体反応に影響することは十分に考えられます。

ただし、それを説明するために、ポリヴェーガル理論をそのまま神経生理学の事実として採用するのは慎重であるべきです。

現時点では、強く実証された生理学理論ではなくより、比喩や仮説モデルとして扱う方が妥当です。

安心感や防御反応を考えるなら、扁桃体、視床下部、脳幹、自律神経、内分泌、予測、学習、文脈依存性を含む、より広い神経科学の枠組みから理解した方が無理がありません。

ポリヴェーガル理論は、安心と防御を語る魅力的な物語ですが、魅力的な物語であることは、生理学的に正しいことを意味しません。

少なくとも現時点では、この理論を神経科学の事実として扱うより、批判的検討が必要な説明モデルとして位置づける方が妥当です。

 


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